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想像することを想像してみる

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月に3〜4回は関西に出張があるのだけれど、新幹線は考えごとをするのにちょうど良い。日々を振り返る貴重な時間でもある。
今日のお土産はミスタードーナッツ。大学時代に友人とミスドで何時間も話し込んだことを思い出す。当日思い立った方から連絡して、夜の9時にミスタードーナッツに集合、深夜12時に閉店してから箕面の滝にドライブして朝日を見るまで喋るのが定例だった(小ネタだけど、大阪府箕面市のミスドが日本での1号店)。
あの無駄に時間があった日々が懐かしい。むしろあれは無駄な時間ではなく本当に必要な時間だったと、いまでは自信を持って言える。

いまリノベーションスクールでお世話になった建築家の三浦丈典さんの著書「こっそりごっそりまちをかえよう。」を読んでいる。その中では、「じぶんのいえでお店を始めるとしたらなに屋さんがいいか考えよう」がいまの自分にはしっくりと来た。

ここ数年で思ったのは、人は誰でも特技を持っているということ。商売じゃなくてもいいから、一人一人が特技や趣味を活かして少しずつまちと関わっていければ楽しい社会になるんじゃないかと思う。
近所の一軒家で、登った山の石を取ってきて、削って家の前に展示してある家があって、胸が熱くなるのを感じた。同じく近所に書道教室があるのだけれど、待合みたいな空間があって、子どもたちが自由に漫画を読んだりしているのを見て、無言のコミュニケーション、その場を共有している一体感のようなものが感じられて良かった。

人間に必要なのはやっぱり想像力だ。直感を研ぎ澄ませたい。いろいろやりたいことはあるのだけれど、まだうまく言葉にならない。
いつか住み開きもやってみたい。時間限定でブックカフェやギャラリーとして家の一部を使ってもらうような。濃厚な人付き合いを求めてるわけではないので、空間や本、ものづくり、自然、手触り感を通じて共感できるものがいい。

といいつつ、自分はゆっくりじっくり型なので、もしかしたらおじいちゃんになってからの活動になるかもしれないけど、自分の子どもたちやその周りの誰かに、想像する楽しさを伝えられれば、これ以上のことはないと思っています。

とりあえず、目の前の仕事をこなすのでせいいっぱいだけど、建築の仕事も一生懸命やっていきたいし、絵本や言葉を書くことも、地道にやっていきたいと思ってます。

それとは別に、最近90年代ミュージックばかり聴いてて、少しばかり歳も感じる今日この頃。

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2017.04.24 | 日々のこと'16-

言葉をからだのなかに取り戻す

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先日の九十九里浜。曇天が浜辺に映り込む様子は、さながらウユニ湖のようだった。

それはさておき。

新聞や雑誌、ネットニュース、SNSを見ていると情報探しに追われてしまい、ひとつ情報を見るとまたひとつ探して、もっと必要な情報があるのではないかと探し回り、いつの間にか通勤時間が終わる。部屋の片付けをしていると、昔の日記やら好きな漫画が出てきて一向に片付けが終わらない現象にも似ている。じっくり本を読む時間もなく、読みたい本のストックは増えていくばかり。

先日、無印良品が出している「素手時然-so shu ji nen-」が届いた。作者の異なる様々なエッセイや文章とビジュアル写真が合わさった一冊で、文章量も多くなく久々に活字をゆっくりと見れた。そこからいくつかを引用させて頂く。

>>>
▪︎いしいしんじ「熊にみえて熊じゃない」
からだと筆記具のサイズがそんなに変わらない幼児や小児は、書くことが即ち全身ペンになり、動き回って驚く体験となるが、だんだんと成長し、手首だけでペンが軽々動かせるようになると、全身の運動として言葉や線を体験することが少なくなり、さらに大人になって白紙やノートに字や線を引くこと自体しなくなると、言葉は自分のからだから離れた、印刷された字、ディスプレイの記号として、人間の外側を流通するだけのものとなる。手書きで字を書くことは、言葉をからだのなかに取り戻し、それをまた外へ投げかえすことだ。紙いっぱいの大きさや「る」や「に」を繰り返していくと、ふとからだが「に」と笑ったり、「るるる」と歌っていたりということがある。それはペンの踊りだ。

▪︎吉本隆明「15歳の寺子屋 ひとり」
誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはないというのが僕の考えです。(中略)大事なのはしょっちゅうそのことで手を動かしてきたか、動かしてきていないかのちがいだけです。これは物書きに限らず、なんでもそうですよ。

▪︎ミヒャエル・エンデ「モモ」
時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜん別のなにかをケチケチしているということには、だれひとり気づいていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもにかまってくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして、人のいのちは心を住みかとしているのです。人間が時間を節約すればするほど生活はやせほそっていくのです。
>>>


その人の哲学が染み込んだ文章は、自分の背筋をピンと伸ばしてくれる。それは日常で使っている言葉とは似て非なるものだ。言葉がからだの内側に入って満たされていく感覚。

なるべくたくさん手を動かして、なるべく深く向き合って、なるべく時間を惜しまず子どもと遊びたい。


最近は、長女と就寝前にトランプ(二人ババ抜き&神経衰弱)をして眠りにつくのが日課になっている。これがすごく楽しく盛り上がる。そのあと寝かしつけをするのだけれど、家族で一番早く眠りにつくのは大抵自分だ。

2017.04.14 | 日々のこと'16-

流動体について

ここ3日くらいで感情を揺り動かされたことが3つあったので、長文になるが書き綴る。
(家がワンルームなので、家族が寝静まって明かりがつけられるトイレに篭って)


一つ目は、自分にとっての「原風景」を持つことについて。

先日のシンポジウムで、南房総リパブリックの馬場未織さんの、平日は東京自由が丘で過ごし週末は千葉房総で暮らすという二地域居住の話を聞いた。『自分の代から「田舎」を持つ』というフレーズがスッと自分の中に入ってきた。

そもそも自分に「田舎」はあるのだろうか。両親がいる実家は大阪にあるが「田舎」とは違う。強いて言えば、祖母の実家が京都の舞鶴(日本海側)の里山のお寺で、年に一回程度は行っていたことや、小学生になる前まで箕面の山の麓に住んでよく滝道を歩いたことや、能勢農場や万博公園の自然体験イベントなどに頻繁に行っていたこと、家の周りにまだ原っぱや自由に遊べる森があったこと(全部マンションに変わってしまったけど)などが自分にとっての「田舎」という概念に近い。「田舎」というよりも、自分の中の「原風景」と言った方がしっくりとくる。

だけど、二人の娘にはそういった自然環境の意味での原風景はない。今の下町風の温かい雰囲気や近所の公園が彼女たちの原風景になるのだろうか。下町はまだしも、タワーマンションや再開発エリアで育った場合の原風景ってどんなだろうとか。

もし、自分がずっと東京に住むとしたら、彼女たちは東京から離れる確率は大きく減るだろう。そして多分「田舎」を持つことはないだろう。そういう意味では、彼女たちがふとした瞬間に思い出せるような特別な場所(原風景とも言える場所)というのはやっぱりあった方がいいのだと思う。


二つ目は、子どもに親はどこまで環境を提供すべきかということについて。

今日、子どもと「映画けいおん!」のDVDを見た。軽音楽部の女子高生5人組が卒業旅行でロンドンに行って演奏するストーリーで、アニメと侮るなかれ、ロンドンの建築も楽しめるし、楽器の正確な描写やチャットモンチー的な勢いのあるロックサウンドとハモり、そして娘が成長した姿を重ね合わせて見たりと、見どころ満載である。そして何よりも、若い時に何かに没頭することの大切さを本当に感じた。

自分が没頭したものを振り返ると、レゴブロック → ガンダムのプラモデル → 一人で知らない街を自転車で散策 → 横山三輝三国志(全60巻を100回以上読んだ気がする)→手塚治虫→宮沢賢治 → ピアノ → 音楽つくーる(プレステで音楽を打ち込めるゲーム)一人バスケ→ 陸上(長距離)→ ギター → バンド → 大学祭実行委委員会 → 建築 → 一人バックパッカー旅行 → カメラなど。友達が少なかったことが幸いして(?)とにかく一人遊びが得意だった。それと一人で禅問答的なことを黙々と考えるのも好きだ。それは昔から変わらずで、今も自分の芯を作っているのはこれらの積み重ねだ。

前、大学の仲間たちでバーベキューをした際に、子どもにとって学歴は必要かという話題になった時、あまり興味がないと答えてしまった。高校はそれほど進学校ではなく、浪人してなんとか公立大学には入ったものの、周りには頭の回転の速い人がたくさんいて、自分の不器用さに劣等感を感じたりした。ただ、勉強は相変わらず得意ではなかったものの建築学科の卒業設計で最優秀賞をもらえたこともあり、学力とは違う感性も評価してもらえるのだと自信がついた。それもあり、自分にとっては勉強ができるかどうかはあまり高いウェイトを占めていない。
実際には、ある程度学歴で制限を受けることは間違いないし、偏差値が高い学校に行った方が、先生や周りの能力の高さに刺激されて世界が広がる可能性は否定しない。ただ、自分もそれなりに勉強はしたつもりだけど、本当に役に立っているのは、やっぱりこれまでに没頭してきたものの積み重ねだ。若い時に必要なのは、自分の芯をしっかりと作っておくことだと思う。それが、社会に出たあたりから、その人に芯があるかどうかですごく差が出てくる気がする。だから勉強はできるに越したことはないけど、大切なのは知識ではなく知恵であり、集中力や本質を考える力、人を引っ張る力、議論する力、伝える力、行動力といった本質的な力をいかに伸ばすかが重要だと思っている。

幼稚園で周りがみんな習い事をやってたり、近くの小学校では学年の半分くらいが中学受験をするらしいという話を聞くと、親として何をすべきなのか焦ってしまうけど、ただただ没頭できるものに出会ってくれたら、それでいいんじゃないかという気もする。自分は多分背中を見せ続けるしかない。だから、自分も好きなことをやり続け、自分の仕事にもプライドを持ってやる。それしかないように思う。
あくまで自分の場合はということだけれど。


三つ目は、人生を肯定することについて。

2月24日のミュージックステーションで小沢健二(以下、オザケン)を見た。中学時代によく聴いたのだけれど、当時は関西人の自分にとっては、そのキャラがあまり好きではなかったこともあり(彼女を仔猫ちゃんと言うところとか)、オザケンを好きだ!とは誰にも言わなかった。その自己暗示もあって、オザケンが好きなことには社会人になるまで気がつかなかった。オザケンをやっぱり好きなのかもと思ったのは、いつもなぜかカラオケで歌ってしまうことに気づいた時だ。そして、ミュージックステーションの演奏を見た時にもなぜか涙が出そうになった。ただ懐かしいからなのか、それとも音楽に本当に感動したのかよくわからなかった。

その理由をずっと考えていて、今のところの仮説としては、何気ない日々の喜びを柔らかに(かつ全面的に)肯定しているところが自分の価値観にあっているのだということ。
「さよならなんて云えないよ」や「僕らが旅に出る理由」「愛し愛されて生きるのさ」の歌詞なんて、短編小説を一冊読んだみたいな清々しい気持ちになる。今36歳になってあらためて歌詞を見ると、凄さがよくわかる。20年前から、そしても今も変わらないオザケンに限りない敬意を表したい。

新曲の「流動体について」は、全体感が掴みにくいところや、サビの不安定な感じなどありつつ、なぜか頭から離れない不思議な魅力を持つ曲だ。歌詞もいかようにも解釈できる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神の手の中にあるのなら その時時に出来る事は
宇宙の中で良い事を決意するくらいだろう
無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
宇宙の中で良い事を決意する時に
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「流動体について」より


自分が今やっていることが本当に正しいかなんて誰にもわからない。与えられた環境の中で、自分の経験と過去の人が積み上げてきた歴史を元にベターな決意をするしかないのだ。だから、自分は今までの人生に後悔している部分は一切ない。思い返すと、もう少し方法はあったかなとは思うが、あの時はそうするしかなかったのだ。この曲はそんな人生の全てを肯定する曲だと僕は解釈するが、聴く人によってまったく違う意味になるかもしれない。

それもまた、オザケンの魅力なのだと思う。

そして、自分を、人生を肯定することがいかに大切かということを社会人になって、そして子どもができてから思うようになった。ある著名な経営者は、自分は失敗したことがないと言った。なぜなら成功するまでやり続けるからだと。物事は捉えようで、ポジティブに見ればいくらでも世界は拓けてくるし、ネガティブに見ればどこまでも閉じていく。

全ては自分次第だ。

2017.02.25 | 日々のこと'16-

雪景色と建築模型

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あっという間に2月も後半へ。
移動中に見た雪景色を思い出しながら、最近のことを振り返る。

■長女 4歳11ヶ月
こちらが間食していると、「一緒に食べた方が美味しいよね〜。お腹すいたな〜。まだ歯を磨いてないんだ〜。」と遠回しにせがんでくる。首のところを指して「ここまで食べ物が入っているよ。でもまだまだ入るよ!」とアピール。思わず肉まんを差し出してしまった。これが女子というものか。

コンビニのイートインカウンターで隣に座ったおばあさんに、「今日は寒いですね」と話しかけていた。おじいちゃん、おばあちゃんには積極的に声をかける。帰りにおばあちゃんから、「貴女の隣に座れてよかったわ。」と声をかけてもらっていた。

発言が大人びてきたのだけれど、まだサ行がタ行になる。
こちらがあまり話を聞いていない時など、「ちゃんと話を聞きなちゃい!」と命令口調で言うので思わず笑ってしまう。

■次女 0歳7ヶ月
生後6ヶ月を過ぎたあたりから立ち始めた。歯もやたら早く生え始めたし、長女と同じで成長が早め。うちはちゃぶ台が円形なので、ちゃぶ台の周りをつたい歩きしながらぐるぐる回っている。よく笑うし、謎の言語もよく発っしている。
長女の外出に連れ回しているので、人馴れしている感じ。結構タフかもしれない。



長女がそこそこ大きくなってきたので、前々から行きたかった、品川にある建築模型博物館に行ってきた。
意外と興味を持って見てくれたので嬉しい。彼女の興味は、模型に人が入っているかどうかと、洗面・トイレがついているかどうかだった。

建築模型は、見た目以上に作成にお金がかかるもので、ものによれば100万以上かかりそうなものも幾つかあったけれど、一般的にはその価値がわかりにくい。また、アートと同じようにメッセージ性の高いものもあるが、専門的な知識がないと、良し悪しがわかりにくいジャンルでもある。
模型は単なるミニチュアでなく、アイディアの原点を見せるのが目的のものも多々ある。壁やガラスが無いものや、建物全体がアクリルで現実離れしたもの、構造体だけのもの、何の用途かわからないもの、そもそも建物なのかもわからないものなど、見る方の想像力が必要なものもある。従って、誰にでもお勧めできる展示ではなく、オープン度合いはかなり限定的である。建物は世の中に溢れているが、建築的な視点で見るという行為は、なんだかんだ言っても狭くて深いジャンルと言わざるを得ない。自分もどっぷりとこの世界に浸かってしまったので、一般的にどれだけ興味を持ってもらえる展示なのかはもはや正直よくわからない。が、自分にとっては、久々の刺激になった。

専門の立場としては、倉庫に保管しておくなら保管するついでに見せちゃえ、というアイディアは本当に素晴らしいと思う。建築関係者はこういう展示には真面目にお金を落とすので、来場者は見るからにプロっぽい人しかいなかったが、非常に洗練された空間だったし、これはこれでいいのかもしれない。

願わくば、こういう場が絶対ここには来ないような子どもに開かれる機会があったらなぁと思うのだけれど。

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中は写真撮影自由。

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ゲーリー邸のソファのディテールを確認中。右と左の部屋でクッションの数が違うとの報告をもらった。

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触りたくなっちゃうと呟いている。触るのは禁止。

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手洗いがあるかチェック中。










2017.02.20 | 日々のこと'16-

目標を定めない自由

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この1年、家族が1人増え、女子3人と男子1人世帯になった。これを機に家具を一式新調した。食器や台所用品も本当に欲しいものを厳選して揃えた。

夏前までは毎日手帳に日記をつけた。7月に次女が生まれた後は、書くよりも、とにかくたくさん写真を撮った。ブログの日記は1年で13本書いた。ここ10年でわずかながら一番多かった。

長女は4歳と9ヶ月になり、シャイなのは相変わらずだけれど、口は達者になった。家ではひとりでよく踊っている。嬉しいときはとにかく踊っているのでわかりやすい。女の子だけに着る服にもこだわりがある。機能よりも見た目を重視する。高いところが好きでジャングルジムによく登る。髪の毛は前髪以外は生まれてからまだ一度も切っていない。腰くらいの長さまで伸びた。

次女はもうすぐ生まれて半年。家族の中では一番声が大きく、よく通る。気づくと寝返りしてコロコロと転がっている。長女の幼稚園の送迎に着いて行って、いろんなお母さんや長女の友達に抱っこしてもらっている。髪の毛はまだ短い。伸びてくると一気に女の子らしくなるのだけれど。

とにかく、布団に入って前後に子ども二人がいると湯たんぽのようで、冷え性の自分にとってはありがたい。

先のことはあまり考えないようにしている。正確に言うと、計画し過ぎないようにしている。集合時間と場所だけ決めて、後はフリータイムの旅のような生き方が、自分にはしっくりとくる。
だから長期的にやりたいことを除けば、一年を通じての目標は特にない。僕の目下のやるべきことは、子どもと本気で遊ぶことだ。それが将来的に最大の投資だと思っている。日々の遊びや暮らしを通じて彼女たちに伝わることがあればそれだけでうれしい。

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2017.01.01 | 日々のこと'16-

丁寧に暮らす

ひょんなことからフランス製の鋳物ホーロー鍋staubを頂いた。厚みのある鋳鉄でできていて、片手では持てないほどズッシリと重い(本当に重い)。

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食材から出る水蒸気が蓋の裏の黒い突起を伝い、水滴になって落ちる仕組みになっていて、野菜から出る水分だけでの無水炊きもできる。弱火で10分くらい炊くと蓋の裏から水が滴り落ちて、味付けをしなくても本当に甘く感じる。
極め付けは米炊き。米に30分吸水させ、6分半中火にかけて沸騰させた後、10分弱火で炊いて10分蒸らす。これで、米の輪郭が凛と浮き出た艶のあるご飯が炊ける。ただし、少しの違いで味に差が出るので、時間と火加減を気にしながら待つ。
炊飯器なら、ボタンを押して待つだけの作業なのだけれど、staubの場合、この待つという時間がとても貴重に感じる。
全自動でないというだけで自分で作っている感がすごくて、いろんな料理をしたくなる。一眼レフカメラのマニュアルフォーカス撮影と同じような感覚。
簡単でないことでチャレンジ芯に火が付くし、より対象物に関心が行くようになる。
(恥ずかしながら、30分吸水のことなど深く考えたことがなかった)

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そして、洗う時も水で急に冷やさない、柔らかいスポンジで優しく洗う、焦げたら無理せず重曹でゆっくり焦げを落とすなど、扱いもデリケートなものなので、普段は鍋の手入れなど全然気にしないのだけれど、とても丁寧に扱っている。100均の器とは気持ちが全然違う。
こういう、丁寧に扱われるものをつくっていきたいとしみじみ思った。




2016.12.11 | 日々のこと'16-

日々の観察

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長女が大きくなるに連れ、電車で1時間くらいの遠出ができるようになっていたが、次女が生まれてから、また行動範囲が狭くなり、近所に散歩で出かけることが増えた。
それはそれで、カメラを片手にシャッターチャンスを探していると様々な発見がある。
マンションの廊下の影がいつもより柔らかかったり、手すりの水滴に空が映っていたり。とりわけ朝の光が一番写真が柔らかく撮れる。そして、数分後にはまったく違う光に変わる。
ちょっと大袈裟だけれど、感度のアンテナが違うだけで世界が変わって見える。


-秋の記録

10/30
長女の熱が39度出たので、自転車で坂を下って上って休日診療へ。
気管支炎の疑いありとのことで家で安静にする。静かにままごとをして遊んでいた。
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10/31
長女の初レントゲン。息を吸って吐く。透けてるのになぜ骨しか見えないのかと不思議そうにしていた。
気管支炎でなくて一安心。次女は先日の予防注射を思い出して受付で大泣きした模様。

11/9
次女の下の歯が二本生えてきた。げっ歯類みたいで愛嬌がある。噛まれるとかなり痛い。

11/13
古本屋で本とCDを大量に処分。ダンボール3箱分(本100冊、CD200枚程度)で11000円。

本棚に残した本も、この先まず読むことはないだろうなと思う本が多々あるけれど、そこにあるだけで自分の頭の中(興味あること)がダイレクトに表現されているような気がして、背表紙を見てるだけで心地が良い。
中でも、ミヒャエルエンデの「モモ」と磯崎新の「建築の解体」、篠原一男の「住宅論」は自分のバイブル。あと、風の谷のナウシカのコミックバージョンも。
他にも、「リノベーションスタディーズ」や、コルビュジェの「建築をめざして」、槇文彦の「見えがくれする都市」、青木淳の「原っぱと遊園地」、ベイトソンの「精神と自然」、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」など10〜20代の時に影響を受けたものほど感慨深い。

11/22
長女がハンバーグ弁当を(紙で)作ってくれた。ケチャップにレタス、ポテトも付いていてバランスが良い。
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11/24
デザインマネジメント(田子學、田子裕子、橋口寛著)を読み終える。

どれも普段無意識に実行していることではあるけれど、言葉で見るとより納得できる
⚫︎デザインの視点は物事の本質を捉えること。
⚫︎デザインは部分的な色カタチの問題ではなく一気通貫で全体のシステムから形づくるもの。
⚫︎デザインの仕事とは、見えない誰かにラブレターを書くことと似ている。どうやったら伝わるだろうか。そもそも自分のことを知っているだろうか。気に入ってもらうためには何をしたらよいだろうか。
⚫︎大切なのは「自分自身の視点を持つこと」「既成概念に疑問を持つこと」
⚫︎ロジカルな思考はそのままに、驚きや感動、喜びといった感性的なアプローチを加える。

デザイン思考に関する本を他に何冊か読んだが、他で読んだロジカル思考とデザイン思考(左脳と右脳)を対比させる考え方よりも自分の考え方に近い。建築デザインは、論理と感覚、部分と全体を行き来する作業であるから。

11/26
長女(4歳)のインフルエンザ予防接種と次女(4ヶ月)の2回目の予防接種。最初長女が注射を受けて大泣きしている時、次女は次は自分の番だとはつゆ知らずヘヘッと笑っていた。次女はその後、両手両足に計4本注射を打たれて大泣き。泣きに泣いた土曜日。

11/27
長女と公園に行くと小学生の女の子が居たので遊びに誘った。自分のことを豊臣秀吉の正室のねねだと言っていた。織田信長の話をしたら、どうしてそんなによく知っているのかと感心された。3人で葉っぱと泥水で蒸し焼きを作って美味しく頂いた(形だけ)。


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先日、幼稚園で神社にお参りに行ったあと、長女がしきりにかばんに「なめくじ」が入っているというので何かと思ってたら「おみくじ」だった。娘を入れて、2人だけ大吉だったらしい。

2016.11.29 | 日々のこと'16-

盛夏

少し前の話。七夕の翌日に次女が生まれた。

小雨が降る金曜の夜。18:51、3100g グラム。
大阪での里帰り出産で、大阪出張の仕事終わりになんとか病院に立ち寄れた。義両親と母がそわそわと待つ間、長女は待合室で意外と気ままに楽しんでいた。
姉妹だからか、次女と長女はよく似ていて不思議な気持ちになる。本当によく似ている。長女が生まれたのと同じ病院で、生まれた時間もほとんど同じだった。
4年前と同じように、出産が終わったあと病室で噛みしめるように家族で夕食を食べた。

名前は、長女と同じように「日」の字を入れた。輝く太陽や日射しそのものというよりも、光の粒のように周りを包み込む存在として。長女は春のやさしい木漏れ日を、次女は夏の朝の眩い光を思い浮かべて名前を付けた。

女子3人に男子1人の構図に、将来の絵(力関係)がなんとなく思い浮かぶが、それはそれで楽しみだ。

そして、長女の赤ちゃん返りもなかなかのもので、次女を抱っこしているとすぐに抱っこをしてくれとせがんでくる。14kgにもなる長女を抱えるのはなかなか体力がいるが、それでもあと数年すれば味わうこともなくなるこの重さを今はしっかりと味わっておきたい。

そして、義実家で「はい、お箸やで」とお玉を渡された時などに「なんでやねん」と返す技を身につけた長女は、こちらが叱ってる途中にまさかの「なんでやねん」を連発し、思わず笑ってしまった。


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2016.08.14 | 日々のこと'16-

風が揺れてる

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4月と5月の記録。とにかくたくさん公園に行った。公園の記憶は、その日の感じた風とセットで残っている気がする。この時期の風はそのくらい本当に気持ちがよくて印象深い。


4/2
中目黒に花見に行く。目黒川沿いのCOW BOOKSに寄った後、dessinへ。どちらも古書店。いつも本当に素晴らしい本ばかり置いてあって、下手に美術館に行くよりも断然楽しい。こういう小さな店が点在しているのが中目黒の魅力。

4/3
娘と自転車を30分漕いで洗足池公園へ。中央の広い池であひるボートに乗る。周りは花見客で一杯でお祭りムード。娘ははじめての綿あめに夢中だった。

4/9
目黒の林試の森公園へ手作り弁当を持ってピクニック。ここは自転車で40分。足がパンパンになるが、東京の街並みや建築を見ながらのサイクリングは本当に楽しい。たくさんの発見がある。17時から公園近くのなぎ食堂に行き、店外からレシピ本当出版記念のフリーライブを見る。ちょうど、テニスコーツの植野さんの弾き語りをやっていた。娘も意外と気に入っていて、1時間くらい立ち見だったのに離れずに見ていた。このお店は渋谷に一店目があって、東京に来てからよく食べに来ている。最近、武蔵小山に二店目ができた。料理にお肉を使っていないのだけれど、大豆で作られたここのベジミートは時々無性に食べたくなる。


5/3
都内にプチ旅行。多摩の方で安く二泊のホテルが取れた。ホテルに行くまでに、調布の手紙舎に寄る。昼下がりに行った手紙舎は、雑貨と本のセレクト、2階カフェ正面のガラス窓を背にした棚のシルエット、右側面からすりガラスを通して入ってくる白い光、使い古された建物から醸し出される独特の空気、シンプルだけれども家では味わえないスペシャルなメニュー、どれをとっても素晴らしかった。
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5/8
公園で泥だんごをひたすらつくる。
日差しが瑞々しくて柔らかな一日。


5/15
近所の神社のフリーマーケットで花柄のワンピースを購入。200円。
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5/21
映画「海街diary」を観る。滝本幹也氏の映像が本当に綺麗。原作の吉田秋生氏の漫画は実家にたくさんあった。うちの母親が好きだった。

5/22
近所の温水プールへ。スイミングスクールは嫌いだったけど、いまこうやって自由に水に体を浸すのは楽しい。無心になれる。

5/26
娘が、僕の好きな柿ピーの絵を描いてくれた。大切にしよう。

5/29
映画「little forest」鑑賞。

6/3
家でたこ焼き。徐々に腕が上がってくる。写真は試行錯誤の一回目のもの。
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2016.06.15 | 日々のこと'16-

little forest

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公式HPより

映画リトル・フォレストの冬編・春編がレンタルで出ていたので借りて観た。
前作の夏編・秋編を観てから1年ほど経ち、前作を観たことすらすっかり忘れていた。

冬編の前半で、藁に大豆を包んで納豆を作るシーンがあり、小さい時の暮らしのことを思い出した。

うちは、祖母が徹底した自然食主義だったので、藁納豆に玄米と、ひじきや小松菜、切り干し大根などの惣菜という組み合わせがほとんどだった。
肉は家で食べた記憶がない。そのせいか焼肉に行くとすぐお腹を壊すし、胃もたれもする。基本的に耐性がない(といっても、大学の時は焼肉屋でバイトもしていたのだけれど。)。

お米は土鍋で炊いていたが、僕が中学生に上がる時に弁当が必要になり、炊飯器を買う買わないで、家族で大揉めした。その後は、電子レンジを買う買わないで、これまた大揉めした。
祖母は電子機器は体に悪いの一点張りであったが、電子レンジを買ってから結局一番よく使っていたのは祖母だった。

肉を食べない代わりに、魚は本当によく食べた。おかげで魚の食べ方が上手いとよく言われる。

おやつは、ごませんべいか、ポンせん、粟おこし、干し芋や干し柿。干し柿は家のベランダで作っていた。マンションの庭には金柑や、葱、アロマが植わっていた。
家は郊外の住宅地のどこにでもあるようなマンションで、そんなに田舎でもなく、こういった暮らしは珍しかったと思う。

祖母は、その辺に生えている野草を拾ってきては、ヨモギ団子を作ったり、タンポポの葉のおひたしや、つくしの佃煮などを作ったりした。タンポポはとても苦かった。
ご馳走の日は、決まって自家製の草もちか、おはぎだった。これは本当に好きだった。

母はその反動か、日曜日には必ずと言っていいほど洋食中心の食事を作ってくれた。平日は働いていたので、確か日曜日が唯一、母が食事を作る日だった。ナポリタン、パスタサラダ、アボカド、その他ラーメンや、カレー、焼きそばなど、子どもが喜びそうなものはなんでも作ってくれた。
月に一度は、祖母に内緒でファーストフードやファミレスに連れて行ってくれた。

祖父が時々パンを焼いてくれたが、茶褐色で身がカチカチに詰まったパンだった。
クリスマスケーキは、外側にクリームを塗ってあったものの、中身は同じカチカチのパンだった。世の中の一般的なケーキがスポンジ生地だということは、しばらく知らなかった。
給食の時に出るふわふわの白いパンが羨ましかった。白い米や甘い卵焼きにも憧れたし、祭でフランクフルトが食べたくて大泣きしたことも覚えている。祭で売っているものは、体に悪いということで、まず買ってもらえなかった。着色料が入っているものもご法度だった。

祖母が作る味の薄い和食は好きではなかった。冬瓜や白和え、ふきのとうの和え物なども、何が美味しいのかよくわからなかった。

あれから30年近く時間が流れ、昔は嫌だったそんな食べ物の方が今は嬉しい。小さな時に食べたものが、今の自分を作っている気がする。

祖母はいま90を超えているが、今は昔と逆に、コーヒーや甘いものが好きだったりする。昔は我が家は砂糖が入ったものは以ての外だったのに。

人間の心は本当に不思議なものだ。

書いていて、ふと思い出したのが前作の夏編・秋編の鳥を捌くシーン。
小学生の頃、農場の林間学校で鳥を捌くのを手伝ったことがある。
この林間学校では、1日のスケジュールや食事のメニューを自分たちで決めるのだが、うっかり鳥の唐揚げとメニュー表に書こうものなら、自分たちで鳥を追いかけて捕まえ、羽を抜いて調理をする羽目になる。
そんな経験を経て、命を頂くということにはすごく意識するようになった。今でも、閉店間際のスーパーに並んだ売れ残りの肉を見ると、体をギュッと絞られたような気持ちになる。

そんな、いろいろなことを思い出させてくれる映画。
特段何が起きるということもないけれど、映像の美しさと、静かに流れるBGMに語り調のナレーションが素晴らしい。

映画のタイトルにもなっている、little という言葉もとても好きだ。
たくさん持たなくてもいい。少しで、わずかでいい。
ささやかな喜びや気づきが、日々を豊かにしてくれる。
そんな風に思う。


2016.06.01 | 日々のこと'16-

冬と春の間で

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2/14 近所の梅園へ。雨と雷と晴れ間が交互に来て、本当に冬と春の間のような一日。

3/5 大学祭実行委員会のメンバーと久々に顔を合わせる。夕方から深夜まで。3次会は有楽町のアイリッシュパブらしきところで、壁掛けのディスプレイから流れていたプライマルスクリームとかレイジとかの懐かしい洋楽のPVを見ながら盛り上がる。

3/11 大学のサークルのメンバーと会う。この歳になると、本当にいろいろな人生がある。大学の時には見えなかったもの。結構、建築の話もした。娘が、寝る前に「流れ星と一緒に飛ぶ夢を見たいの」と言って眠りに落ちた。

3/12 久々のディズニーランド。キャストのサービスが素晴らしく、混んでいることも全く気にならなかった。偶然、高校の陸上部の同期に会う。

3/13 夕方、近所の公園に娘を連れて行く。10m四方でブランコしかないこの小さな空間でのささやかな出来事も、いつか思い出すことがあるかもしれない。

3/16 娘の幼稚園の年少最終日。集合写真などを見せてもらう。親の知らないところで、娘だけの世界が緩やかにできていっている。写真の時にいつも首を傾けているのは、お気に入りのポーズなのか。

3/17 23時から漫画家浦沢直樹さんとの五十嵐大介さんの対談。五十嵐さんがペンで緻密に描き込む度に広がっていく世界に釘付。

3/19 娘の4歳の誕生日。親になる感覚ってよくわからなかったし、今も多分わかってない。まだまだ何もわかっていない。だから楽しい。






2016.03.26 | 日々のこと'16-

ロックと記憶

音楽家の大友良英さんのラジオ番組で、画家の奈良美智さんが紹介していたアメリカのスリーピースバンド、スリーター・キニーが自分の中でジワジワと来ていて、ここ数日聴いている。
(※下線部のリンクは音が出るので注意)

番組内で紹介された一曲は、Anonymous。ギター二人とドラムのバンドなので、ギターがうねって絡み合うサウンド。A New Waveという曲も弦楽器同士の相性がいい。

直接関係はないが、力が抜けた系のロックとしては、clap your hands say yeah のThe Skin Of My Country Yellow Teeth も好きな曲の一つ。

ロックに限っての記憶を辿れば、中学の時に、母親のカセットテープ棚から勝手に引っ張り出して、ビートルズやホワイトスネイク、ポリスやらを、その後友人に勧められボンジョビ、高校でニルヴァーナ、ハイスタンダード、ドリームシアター、レッド・ツェッペリン・オアシス、グリーンデイ、大学でレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、スマッシング・パンプキンズ、レディオヘッドなどを聴いた。

これらの音を聴くと、これは誰々に教えてもらっただとか、初めてスタジオで弾いた曲だとか、コインロッカーから荷物を取り出すように10代や20代の時のことがとてもリアルに思い出せる。
記憶と音楽というのはいつもセットだ。

ロックについては、ザ・クロマニヨンズの甲本ヒロト氏の言葉で記憶に残っている言葉がある。正確ではないが「一生食えるくらいの金があっても満たされない飢餓感。それがロックンロールだ。」という趣旨の言葉だったと思う。アップルのスティーブ・ジョブズ氏の「ハングリーであれ。愚か者であれ」と同じだと思った。

甲本ヒロト氏の言葉は、香川の高松で讃岐うどんを食べた後に、ふらりと立ち寄った、本が読めるバー「半空」で見た一冊の本に書かれていた。その本は「ロックンロールが降ってきた日」というタイトルで、ぼくは無意識のうちに手に取っていた。あのときの店内の薄暗さや、高く積まれた本と、色鮮やかに並んだカクテルの瓶、コーヒーの香りもよく思い出せる。

本で思い出すのは、小学校3、4年生の頃に江戸川乱歩の小説「怪人二十面相」にのめり込んでいたこと。内容自体ははっきりとは思い出せないが、それを読んでいた時の感覚は今も覚えている。その推理小説の影響を受けて、自分で殺人事件の小説を書いて豆本を作った。犯人は自由に豹に姿を変えられる豹男という今思うとナニコレな設定だった。赤い絵の具で血糊も付けた。紙同士を糊とセロテープでくっつけた結構粗い装丁だった。

こうして本や音楽のことを思い出すと、それにまつわる沢山の記憶(苦いのも甘酸っぱいのも含めて)も付いてくる。
本も音楽と同じように記憶と一対なのだ。

2016.02.13 | 日々のこと'16-

火曜の夜のシリウス

2.7
夜、日曜美術館で村上隆の五百羅漢図特集を見る。3歳の娘が「ちょっとこわいね〜。買わないほうがいいね〜」を連呼していた。あれだけの作品を買える財力はないので、安心してもらいたい。

2.8
携帯を家に忘れる。おかげで、行き帰りの電車で読書に没頭。携帯の小さい画面をずっと見ていると、頭の中がどんどん小さくなっていく気がする。情報は入ってくるけど、自分の中で咀嚼できていないような。といっても、携帯を手にするとやっぱり見てしまう。

2.9
帰りにいつもの電車が停まっていたので、別のルートで帰宅。振替輸送の影響で、最寄駅の一つ前で停まる電車に乗り、一駅分歩いて帰る。途中は閑静な住宅街で、街灯もほとんどない。ふと空に目をやると、オリオン座の傍で、シリウスが一際光って見えた。久々に夜空を見上げた。

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2016.02.10 | 日々のこと'16-

朝の余白

月に2、3回は、少し早めに家を出て、出勤前に東京駅構内のHint index bookでモーニングを取る。
本屋の片隅にカウンター席があるブックカフェ形式。
ワンコイン程度で厚切りのバタートーストとスクランブルエッグ、大判のハムにサラダ、それにブレンド珈琲が付いてくる。
朝カレーにも惹かれるが、気付けばいつもこのセットを頼んでいる。

ガラスに面したカウンター席に座り、本を読みながらの僅か15分余りの朝の余白。

余りの「白」ではなく、必要な「白」。
もしくは「間(ま)」といった方が近いかもしれない。


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2016.02.05 | 日々のこと'16-

時間の花

もうすぐ4歳を迎える娘が、しきりに「いまなんじ?」と聞いてくるので、100円ショップで時計を買った。
まさか本当に100円で手に入るとは思わなかった。
いざ電池を入れて動かしてみると、秒針の音が思ったより大きい。

夜中に響く針の音。
体が小さく小さくなって、針に体を後ろから押し出されているような気持ちになる。
「時間」と言えば、いつもミヒャエル・エンデの「モモ」を思い出す。
小さい頃、家にビデオがあって繰り返し見た。
文庫も多分あったと思う。

時間貯蓄銀行からやってきた灰色の男たちが、街中の人から無駄(と他人からは思える)な時間を奪っていき、人々は生きることに余裕が無くなっていく話で、子ども心ながら、時間を単純に効率で計ることに警戒心を覚えた記憶がある。

どれだけ効率化が進んでも、特にものづくりにおいては、手間をかけ、何回も何回もやり直しをしながら進んでいくことでしか得られない輝きのようなものが、最後の砦として残る気がする。

手を動かして沢山の案を作っても、やっぱり最初のが一番良かったということも往々にしてある。
そんな状況でいつも思うのは、最初のアイディア以外の可能性についても、自分が満足いくまで検証した結果、最初のアイディアしかあり得ないという確信にたどり着くのであって、すべては必要なプロセスだったということ。
(そう思わないとやっていられない。)

そういう訳で、僕が休日に布団にくるまって午睡するのも、ただただ公園で青空を眺めるのも、少し寄り道して帰ってみたりするのも、日々を豊かにするための、節約できない大切な時間なのです。

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2016.02.02 | 日々のこと'16-

夜の木

数年前に、池袋のブックギャラリーポポタムで出会って以来、買わなかったことを心残りにしていた、インドの絵本「夜の木《原題:The Night Life of Trees》」が届いた。
(35歳の誕生日に。自分が35歳になる日が来るなんて考えたこともなかったけど、現にそうなっている。アラフォーへまた一歩。)

夜の木は、インドの工房で製作された部数限定のハンドメイドブックで、この表紙は4版になる。
今年の4月には5版が出る予定になっているが、鮮やかな若草色に惹かれて4版を選んだ(版ごとに表紙が異なる)。
4月まで待ちきれなかったのもあるし、そこそこいい値段がするので、誕生日くらいにしか買えないというのもあった。
本の裏側には779冊目を表す「0779 of 2000」のサインが刻字されている。

「夜」にふさわしい深い黒に染められた、ざらっとした質感の手漉き紙に、繊細なシルクスクリーンの版画。
華奢で柔らかいフォントと、黒いバックに白く浮かび上がる洗練された文字組み。
ベッドの傍に置いておくだけでも、なんだかパワースポット的な様相を醸し出している。
神社に参拝するときのあの感覚。
少し大袈裟だけれども、本当にそんな感じ。

本文「想像主のすみか」より
《菩提樹は完全な木ともいえ、そのかたちを陽に透かして見ると、葉っぱの形と同じなのだ。細部に全体が宿っているということだ。》

まさに、「神は細部に宿る-God is in the details」という言葉にふさわしい本だと思う。

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2016.02.01 | 日々のこと'16-

歴史と文化

娘とふたりで浅草花やしき遊園地に行った。

浅草寺が激混みであったので、迂回をして行ったら、飲み屋街に差し掛かる。飲み屋といっても、チェーンの居酒屋ではなく、屋外に席があって、ビニールカーテンで仕切られたタイプが数十軒並んでおり、昼間からほぼ満席。大阪の新世界の串カツ屋が立ち並ぶ風景によく似ている。

観光の中心である浅草寺とそんなカオス感が半端ない赤提灯の間に浅草花やしきはあった。
未就学児は入場料無料で、4歳以下の子ども1人につき、付添1人は無料で乗り物に乗れる。屋根が剥げたメリーゴーランド、天井の破れたお化け屋敷(演出ではない)、隣接する怪しげなホテルや、明らかに飲み屋でテンションが上がって入園してきたお客さんもいて、ここが現実と切り離された夢の国ではなく、現実の中にこそ、こんなに素晴らしいものがあるのだということを逆説的に教えてくれる。

要するに、結論から言うと滅茶苦茶楽しかった。1日で回れる適度な規模。カオス感。レトロな乗り物たち。待ち時間も長くて10分くらいだった。遠くに見えるスカイツリー、浅草寺の五重の塔を一望できる景観と足元のトタン屋根で葺かれた下町のギャップ。日本最古の遊園地で、開園162周年というのもよい。ステージのパフォーマー達も、夜はホストでもやっているのだろうかというノリでローカル感がすごくて感動した。ステージの反対側の片隅で、妖精?に扮したお姉さんと塗り絵をしたり、折紙を作ってもらう娘。なんだか親戚の家に遊びに来たような気分だ。wikipediaで歴史を見ても、動物園であったことや終戦後の不法占拠の話、入場料が無料だった時には場外馬券場から流れてきた労働者が占拠していたことなど、歴史的にも見どころ満載である。戦前からの歴史と浅草という独特の文化の隙間にあるもの。
娘の身長があと5cm伸びて110cmになればジェットコースターに、120cmになればおそらくほとんどのアトラクションにチャレンジできる。そんなに広くないのに、同じアトラクションに3回も4回も乗ったおかげで全部回れなかった。本当に飽きない。

帰りは近くの蕎麦屋で天ざるを。程よく観光気分も楽しめる。
はしゃぎ過ぎたお陰で、次の日はまったく体が動かなくて、使い物にならず。

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2016.01.13 | 日々のこと'16-

2016日記

年が明けてから、ノートに日記をつけている。

2016年は、とにかく書くことにした。
できれば毎日。

でも毎日書いても書かなくてもいい。
と、既に妥協している。

目標はできるだけ手が届くものにした上で、逃げ道も用意するあたりが器の小ささを象徴しているが、コツコツと長く続けるのは苦手ではないので、径が小さく底は深い花瓶のような器なのかもしれない。
そうであったらいいなと思う。
そして、できれば底は裾広がりで、見た目以上の容量があればなおよい。

とりあえずブログも、地面擦れ擦れの超低空飛行でなんとか10年目に突入した。
自分で見返すこともほぼない(むしろ昔のものは恥ずかしくて見れない)けれども、少しばかりはうれしい。


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2016.01.12 | 日々のこと'16-

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