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流動体について

ここ3日くらいで感情を揺り動かされたことが3つあったので、長文になるが書き綴る。
(家がワンルームなので、家族が寝静まって明かりがつけられるトイレに篭って)


一つ目は、自分にとっての「原風景」を持つことについて。

先日のシンポジウムで、南房総リパブリックの馬場未織さんの、平日は東京自由が丘で過ごし週末は千葉房総で暮らすという二地域居住の話を聞いた。『自分の代から「田舎」を持つ』というフレーズがスッと自分の中に入ってきた。

そもそも自分に「田舎」はあるのだろうか。両親がいる実家は大阪にあるが「田舎」とは違う。強いて言えば、祖母の実家が京都の舞鶴(日本海側)の里山のお寺で、年に一回程度は行っていたことや、小学生になる前まで箕面の山の麓に住んでよく滝道を歩いたことや、能勢農場や万博公園の自然体験イベントなどに頻繁に行っていたこと、家の周りにまだ原っぱや自由に遊べる森があったこと(全部マンションに変わってしまったけど)などが自分にとっての「田舎」という概念に近い。「田舎」というよりも、自分の中の「原風景」と言った方がしっくりとくる。

だけど、二人の娘にはそういった自然環境の意味での原風景はない。今の下町風の温かい雰囲気や近所の公園が彼女たちの原風景になるのだろうか。下町はまだしも、タワーマンションや再開発エリアで育った場合の原風景ってどんなだろうとか。

もし、自分がずっと東京に住むとしたら、彼女たちは東京から離れる確率は大きく減るだろう。そして多分「田舎」を持つことはないだろう。そういう意味では、彼女たちがふとした瞬間に思い出せるような特別な場所(原風景とも言える場所)というのはやっぱりあった方がいいのだと思う。


二つ目は、子どもに親はどこまで環境を提供すべきかということについて。

今日、子どもと「映画けいおん!」のDVDを見た。軽音楽部の女子高生5人組が卒業旅行でロンドンに行って演奏するストーリーで、アニメと侮るなかれ、ロンドンの建築も楽しめるし、楽器の正確な描写やチャットモンチー的な勢いのあるロックサウンドとハモり、そして娘が成長した姿を重ね合わせて見たりと、見どころ満載である。そして何よりも、若い時に何かに没頭することの大切さを本当に感じた。

自分が没頭したものを振り返ると、レゴブロック → ガンダムのプラモデル → 一人で知らない街を自転車で散策 → 横山三輝三国志(全60巻を100回以上読んだ気がする)→手塚治虫→宮沢賢治 → ピアノ → 音楽つくーる(プレステで音楽を打ち込めるゲーム)一人バスケ→ 陸上(長距離)→ ギター → バンド → 大学祭実行委委員会 → 建築 → 一人バックパッカー旅行 → カメラなど。友達が少なかったことが幸いして(?)とにかく一人遊びが得意だった。それと一人で禅問答的なことを黙々と考えるのも好きだ。それは昔から変わらずで、今も自分の芯を作っているのはこれらの積み重ねだ。

前、大学の仲間たちでバーベキューをした際に、子どもにとって学歴は必要かという話題になった時、あまり興味がないと答えてしまった。高校はそれほど進学校ではなく、浪人してなんとか公立大学には入ったものの、周りには頭の回転の速い人がたくさんいて、自分の不器用さに劣等感を感じたりした。ただ、勉強は相変わらず得意ではなかったものの建築学科の卒業設計で最優秀賞をもらえたこともあり、学力とは違う感性も評価してもらえるのだと自信がついた。それもあり、自分にとっては勉強ができるかどうかはあまり高いウェイトを占めていない。
実際には、ある程度学歴で制限を受けることは間違いないし、偏差値が高い学校に行った方が、先生や周りの能力の高さに刺激されて世界が広がる可能性は否定しない。ただ、自分もそれなりに勉強はしたつもりだけど、本当に役に立っているのは、やっぱりこれまでに没頭してきたものの積み重ねだ。若い時に必要なのは、自分の芯をしっかりと作っておくことだと思う。それが、社会に出たあたりから、その人に芯があるかどうかですごく差が出てくる気がする。だから勉強はできるに越したことはないけど、大切なのは知識ではなく知恵であり、集中力や本質を考える力、人を引っ張る力、議論する力、伝える力、行動力といった本質的な力をいかに伸ばすかが重要だと思っている。

幼稚園で周りがみんな習い事をやってたり、近くの小学校では学年の半分くらいが中学受験をするらしいという話を聞くと、親として何をすべきなのか焦ってしまうけど、ただただ没頭できるものに出会ってくれたら、それでいいんじゃないかという気もする。自分は多分背中を見せ続けるしかない。だから、自分も好きなことをやり続け、自分の仕事にもプライドを持ってやる。それしかないように思う。
あくまで自分の場合はということだけれど。


三つ目は、人生を肯定することについて。

2月24日のミュージックステーションで小沢健二(以下、オザケン)を見た。中学時代によく聴いたのだけれど、当時は関西人の自分にとっては、そのキャラがあまり好きではなかったこともあり(彼女を仔猫ちゃんと言うところとか)、オザケンを好きだ!とは誰にも言わなかった。その自己暗示もあって、オザケンが好きなことには社会人になるまで気がつかなかった。オザケンをやっぱり好きなのかもと思ったのは、いつもなぜかカラオケで歌ってしまうことに気づいた時だ。そして、ミュージックステーションの演奏を見た時にもなぜか涙が出そうになった。ただ懐かしいからなのか、それとも音楽に本当に感動したのかよくわからなかった。

その理由をずっと考えていて、今のところの仮説としては、何気ない日々の喜びを柔らかに(かつ全面的に)肯定しているところが自分の価値観にあっているのだということ。
「さよならなんて云えないよ」や「僕らが旅に出る理由」「愛し愛されて生きるのさ」の歌詞なんて、短編小説を一冊読んだみたいな清々しい気持ちになる。今36歳になってあらためて歌詞を見ると、凄さがよくわかる。20年前から、そしても今も変わらないオザケンに限りない敬意を表したい。

新曲の「流動体について」は、全体感が掴みにくいところや、サビの不安定な感じなどありつつ、なぜか頭から離れない不思議な魅力を持つ曲だ。歌詞もいかようにも解釈できる。

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神の手の中にあるのなら その時時に出来る事は
宇宙の中で良い事を決意するくらいだろう
無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
宇宙の中で良い事を決意する時に
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「流動体について」より


自分が今やっていることが本当に正しいかなんて誰にもわからない。与えられた環境の中で、自分の経験と過去の人が積み上げてきた歴史を元にベターな決意をするしかないのだ。だから、自分は今までの人生に後悔している部分は一切ない。思い返すと、もう少し方法はあったかなとは思うが、あの時はそうするしかなかったのだ。この曲はそんな人生の全てを肯定する曲だと僕は解釈するが、聴く人によってまったく違う意味になるかもしれない。

それもまた、オザケンの魅力なのだと思う。

そして、自分を、人生を肯定することがいかに大切かということを社会人になって、そして子どもができてから思うようになった。ある著名な経営者は、自分は失敗したことがないと言った。なぜなら成功するまでやり続けるからだと。物事は捉えようで、ポジティブに見ればいくらでも世界は拓けてくるし、ネガティブに見ればどこまでも閉じていく。

全ては自分次第だ。

2017.02.25 | 日々のこと'16-

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