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言葉をからだのなかに取り戻す

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先日の九十九里浜。曇天が浜辺に映り込む様子は、さながらウユニ湖のようだった。

それはさておき。

新聞や雑誌、ネットニュース、SNSを見ていると情報探しに追われてしまい、ひとつ情報を見るとまたひとつ探して、もっと必要な情報があるのではないかと探し回り、いつの間にか通勤時間が終わる。部屋の片付けをしていると、昔の日記やら好きな漫画が出てきて一向に片付けが終わらない現象にも似ている。じっくり本を読む時間もなく、読みたい本のストックは増えていくばかり。

先日、無印良品が出している「素手時然-so shu ji nen-」が届いた。作者の異なる様々なエッセイや文章とビジュアル写真が合わさった一冊で、文章量も多くなく久々に活字をゆっくりと見れた。そこからいくつかを引用させて頂く。

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▪︎いしいしんじ「熊にみえて熊じゃない」
からだと筆記具のサイズがそんなに変わらない幼児や小児は、書くことが即ち全身ペンになり、動き回って驚く体験となるが、だんだんと成長し、手首だけでペンが軽々動かせるようになると、全身の運動として言葉や線を体験することが少なくなり、さらに大人になって白紙やノートに字や線を引くこと自体しなくなると、言葉は自分のからだから離れた、印刷された字、ディスプレイの記号として、人間の外側を流通するだけのものとなる。手書きで字を書くことは、言葉をからだのなかに取り戻し、それをまた外へ投げかえすことだ。紙いっぱいの大きさや「る」や「に」を繰り返していくと、ふとからだが「に」と笑ったり、「るるる」と歌っていたりということがある。それはペンの踊りだ。

▪︎吉本隆明「15歳の寺子屋 ひとり」
誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはないというのが僕の考えです。(中略)大事なのはしょっちゅうそのことで手を動かしてきたか、動かしてきていないかのちがいだけです。これは物書きに限らず、なんでもそうですよ。

▪︎ミヒャエル・エンデ「モモ」
時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜん別のなにかをケチケチしているということには、だれひとり気づいていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもにかまってくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして、人のいのちは心を住みかとしているのです。人間が時間を節約すればするほど生活はやせほそっていくのです。
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その人の哲学が染み込んだ文章は、自分の背筋をピンと伸ばしてくれる。それは日常で使っている言葉とは似て非なるものだ。言葉がからだの内側に入って満たされていく感覚。

なるべくたくさん手を動かして、なるべく深く向き合って、なるべく時間を惜しまず子どもと遊びたい。


最近は、長女と就寝前にトランプ(二人ババ抜き&神経衰弱)をして眠りにつくのが日課になっている。これがすごく楽しく盛り上がる。そのあと寝かしつけをするのだけれど、家族で一番早く眠りにつくのは大抵自分だ。

2017.04.14 | 日々のこと'16-

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